高畑城の伝説

安元年中 藤原泰衡の一族である 樋爪五郎秀衡の築くところ、 泰衡の子 俊衡の弟である。
岩手の樋爪町に居城してあったが、 命によって出羽の護りとして 河田次郎兼衡に築かしめた。 安元元年は七八五年前
藤原氏全盛の時代であった。  陸奥一帯に部将を置き、 平泉に中尊寺を建て、京都をしのぐの偉観であった。
其の後 暦仁元年(七七二年) 時の暁将 長井左衛門時広の臣  浜田次郎太夫大江常方が居城して居った。常方の弟 為衛、
子 照衛、 基光、広明 五代この城に居った。
至徳二年(五七六年) 伊達宗遠が 置賜に侵入して、高畠城を攻めた。 そして落城して 広明は自刃して果したが、 その子 広忠は
伊達政宗の臣となり、 和田の稲子原に城を築いて居った。
九月 伊達政宗 高畑城を修理して 同三年 城に入った。 そして、 政宗の子 氏宗、 持宗、 成宗と 四代当城に居って
威をふるった。
長禄二年(五〇三年) 会津黒川の城主 芦名盛高、 今上兵庫之頭の大軍が、 高畑城を攻め落とそうとした。
伊達成宗 舟坂に防戦した。 その善戦によって 同年九月 黒川勢が破れて 本城へ帰った。 寛正元年(五〇〇年) 米沢に
松岬城を築き、 同二年十月 入城した。 米沢城という。
尚宗は、父に随って 米沢城に居ったが、其の子 稙宗と意見を異にし、 明応三年 兵八百人を引率し 米沢城を討入ろうとした。
尚宗 又 其の兵 一千二百人にて 兵を進め、 途中 糠の目村に合し、 松川を挟んで戦った。
同年四月 重臣 石川、原田、小菅、神岡、浜田、伊藤、入生田 の面々が米沢城より来て、遠藤、寺嶋、本郷、桑折、桑島、片倉の面々
に 義を説いて 和睦を評議したが 成立しない。 同三年 大合戦に及んだ。
こうして親子の争いが止む時なく、近国へも聞こえたので、 会津黒川の城主 芦名氏が 金山兵庫を大将として 兵四千五百人で、
同年四月二十二日 黒川を発し、檜原口から侵入した。 
伊達親子は大いに驚いて 和睦をして 芦名勢を防いだ。 同、築沢で合戦があり、 明応三年五月五日 黒川勢 兵糧つきて
本城へ帰城した。  以来 尚宗、稙宗、晴宗、輝宗、政宗 五代 この城へ居った。 ことに輝宗は 武勇にして武威四隣に震う。
天正十二年 輝宗 二本松城主 義隆を討とうとして 阿武隈川を挟んで 大いに戦った。 天正十三年九月十八日 二本松義隆の弟
義継 山間の道陰より 精兵五百人で 米沢城へ攻め入った。
夜に入って 大風に乗じて、 家中に火を放って夜討をする。  十九日の間 大合戦あった。
同年十月八日 和睦に事よせて 輝宗を生捕り 遂に憤死した。  天正十三年 輝宗の遺体を 夏刈の資福寺に葬った。
天正十八年正月 家臣を集めて 支城のことについて評議した。 一統夏刈柄島川を挟んで 築城に決した。
儒臣 坂野幸照 桑島多門に命じて 縄張りをした。  大道寺照隆 伊藤大隅を 奉行として 八月築城を始めた。
同十九年三月 秀吉より 陸奥国岩出山に移封の教書があって、 同年六月 岩出山城に移る。
明応四年四月より 伊達尚宗の臣 小早川入道率雪の子、尚雪、其の子 広雪 三代城代として居った。
天正十九年九月から 会津城主 蒲生飛弾守氏郷の重臣 小梁川泥藩が 代わって在城した。  そして慶長二年五月まで居った。
慶長二年六月 直江山城守兼続 の臣が月番交代で 名を 交代城代と云うた。
慶長六年十月十八日 上杉景勝の入国となって以来、 春日右衛門 城代となった。
そして 明和二年 織田氏 入城した。







高畑城堀跡

高畠町露藤 安部名平次  (高畠伝説集より)

高畑城絵図 (別名 鐘ヶ城)

山形県中世城館遺跡調査報告書   第一集より

昭和30年?空写の、上、小学校、下、中学校。
城跡の大半を見る事ができる。

高畑城 (屋代城、鐘ヶ城)  たかはたけじょう、やしろじょう、かねがしろ

所在地    高畠町大字高畠字古城ノ内
築城者    橋爪五郎秀衡
築城時期   平安末期


高畑城跡は「元禄の頃羽州高畠之図」及び「明治21年字限図」によりその位置を特定することができる。 即ち、 東西約300m、南北約2
00mの、西方が半円形をなした不正形長方形の「字古城ノ内」がその域であったことがわかる。
内、本丸、二の丸の曲輪の広さは、東西約220m、南北約100mの約2.2ha程とみられる。 その内、東3分の2は小学校、西3分の1は
保育園と高校の敷地及び果樹園、水田、宅地等となっている。 元禄古図にある寺院、堰堀など周辺の位置は全く動いていないので
一部残存遺構は容易に照合できる。 高畑城はその形が釣鐘に似ていることから鐘ヶ城ともよばれた。

高畠は平安の昔より、 摂関藤原氏、奥州藤原氏の荘園、支配地で、左大臣藤原頼長と奥州2代基衡との間に税をめぐるやりとりが頼長の
日記にあるところから、 高畠を中心とする屋代郷一帯は奥州藤原氏の一族(基衡の甥秀衡という伝)か、 支配下の有力士豪が支配して
いたと思われる。

その館堀をめぐらした程度の居館であったらしいものを、 天授6年(1380)に侵攻し長井氏を滅ぼした伊達宗遠と9代政宗が置賜の本拠
として修築、元禄図程度の規模となったと伝えられている。
以後、伊達氏、上杉氏、幕府直轄、織田氏らの居城、居館、陣屋等となるが、衰微することはあれ、大きく増幅された記録はないので、
遺構は戦国期を遡る時代からのものとみてよいのではなかろうか。

図の曲輪I(本丸)をめぐり、曲輪Uの保育園正面辺りに大手門Aがあったとみられ、B及びCは堀形(元水田)がそのまま道路、宅地、
果樹園として残っている。 Dはただ一個所残っている堀跡でEの深田は現校舎改築(昭、54)前までは実習田として使われていた。
以下、残存するのは、馬出の一部とみられる石橋F,北御門があったG,及び土塁の一部が僅かに残るH,元禄図とぴたり一致する
弁財天跡地Jの地下2mから最近、鳥井片が掘り出されている。 ほか、外堀が埋められて田形として残り、水田、果樹園となったK,L、
窪地、畑となったM等が昔の形を留めて残っている。また、家中屋敷があったN,Pは「お屋敷」という地名になった。

飲料水及び堀水は、北の屋代川から引き水をしていたものと思われる。 Qの堰堀はその導入口とみられ、近年、Rから木菅が掘り出された
が年代は不明である。 また、曲輪Uの一角Sに井戸があり、 石枠が残っていたが、屋代川の伏流水はこの辺りでの汲み上げは
可能であることから、飲料水については先ず心配はなかったと思われる。

高畑城をめぐる屋代館、志田館、塩森館、亀岡館、館ヶ崎館等は、恐らく、高畑城を中心とする、長井氏時代からの東の伊達氏に
対する備えで、伊達氏の時代に、諸将が増強して居館としたものと思われる。
国境に到る屋代川扇状地の隘路口を護る要の拠点、降って、伊達氏置賜支配の本城であったと考えられる。
図の破線内は、内堀、外堀の跡と想定され、広い所では、明治初年頃までは、 幅30m、土塁の一部は幅10m、高さ4m程であったと
古老は伝えている。




注、 上記年号  安元元年は1175年  暦仁元年は1238年、 至徳2年は1385年、 長録2年は1458年、
            寛正元年は1460年です。