正宗君より天正十九年六月加美郡宮崎城主、笠原民部○○守之軍将を命ぜられ宮崎へ発向す。
城より出る敵を遂て城門に至り、鉄砲を放て攻むれども、城堅固にして不屈景隆軍兵に下知して溝の水を落とさんと、自ら城頭に下る。   
敵是を防いで強戦す、 先軍破て、景隆深手、肩を従卒に○○れて陣営に帰る。
六月二十四日、行年三十八にて遂に卒す。
死骸城より一里余り隔○○ 加美郡柳澤村檜葉町に葬 共他 成田惣八郎、松木伊勢、前田河上総峯左近、
伊場野惣八郎、塩森長門、並同胴小出小阿彌  足軽百人余り戦死す。

                               景隆家老    井上伊右ェ門

    興徳院殿雄岳景隆大居士

墓の見取り図

加美郡宮崎村大字柳澤 濱田圍之内
濱田伊豆景隆君之墓及近○戦死之墓見取り図 

碑文

景隆の墓について 

大正二年(?) 五月二十二日見取り
濱田圍  七番墓地地主  濱田累長
濱田圍  八番墓地地主  沼田孫治朗

当家十七世貞山は、独眼流政宗の事。

東北本線  古川駅下車  
陸羽東線  岩出山駅下車
東北自動車道  大和ICから約35分

景隆が戦った宮崎城跡 

川は左にうねり、他の川と合流する

合流地点、崖上に宮崎城があった

土塁跡

宮崎城推定図 (宮崎町史より)