1250年代       建長年中奥州伊達粟野次郎蔵人大輔義廣、手自彫に刻、観音尊客三十三体。
              其規尺斎千自己之身形。  爾後改号に於 覚仏云々。

              伊達三世義廣は宗村の子で、伊達郡粟野大館に居城し、承久の乱には家臣
              原田氏を遣し、北条泰時に従って宇治・勢多に戦った。
              剃髪して覚仏と号した。  当て等身の観音像三十三体を作る。
              米沢地名選に、三十三観音堂城東の寺町にあり。 別当当山派大悲山観音寺、
              初本覚院改め、善性院。

              寛永17年(1641)2月23日羅災為灰土 とある。

1380年        8世伊達宗遠、長井道広を攻め、長井荘を憤取する。

1383年        置賜郡、成島八幡宮の拝殿を建立する。

1390年        9世、儀山政宗は明徳元年10月、成島八幡の神門を造営した。


1400年        儀山政宗、葦名満盛らが奥州両御所の指示に従わないため、篠川(足利)満貞、
             結城満朝に軍勢を催促する。   政宗米沢(高畠)へ逃げる。

                  儀山政宗の歌。

              山家の雪    中々につつら折なる道絶えて雪に隣の近き山里
              山間の霧    山合の霧はさながら海に似て波かと聞けば松風の音





    
                    


                        9世  儀山政宗公 







1430年代       11世伊達持宗、永亨年中(1429〜1441)に比叡山の仏師に観音像を刻せしめて
              資福寺の本尊とした。
              比像は、今其記録と共に、米沢市東寺町の福泉寺にあり、
              仏体、厨子共に貴重な作品であるという。

1442年         嘉吉2年、祖母(政宗の室)が死亡、 染川に輪王寺を建てて冥福を祈った。
              比寺は後、 米沢に移り、仙台に移った。  
              染川の寺跡は桑畑となったが、米沢のは、東寺町にある。

1453年        11世持宗、亨徳2年、高玉村に瑞龍院を創建した。
              
              京都鹿宛院慧山和尚の慧山日録に

                「伊達置賜を領して勢力あり、 其領内に東昌寺ありて五百指の
                 僧侶を敷ふ。」 とある。  東昌寺は赤湯の東正寺、
  
1458年        長録2年8月、葦名盛詮が長井を攻め寄せ、持宗これを追い返した。

1460年        将軍義政、鎌倉公方成氏の討伐を 伊達持宗・最上義春・天童頼勝・
              武藤淳氏をはじめ 奥州の諸将に命じる。

1467年         応仁の乱起こる。

1485年        置賜郡の瑞龍院が頼願寺になり、○○明応は論旨をうける。

1490年         焼失した塩野毘沙門堂を13世尚宗が再建した。 
              別当寺は、1200年の古刹、延徳寺.

1494年         高畑城に居る14世稙宗が、竹の森館の尚宗をおそった。

1500年         13世尚宗が、安久津八幡を修理した。  棟札は焼失して現存しない。

1505年        13世尚宗の3男 久松丸が死去。  墓は米沢市 昌伝庵昌伝庵にあり。




              

伊達家14世  伊達稙宗

1514年        14世伊達稙宗、長谷堂にて最上軍を破り、小梁川親朝に長谷堂を守らせる。 

1515年         伊達稙宗、最上家と和睦し、稙宗の妹が最上義定に嫁ぐ。

1520年        上山義房ら最上義守に反抗し、伊達稙宗これを鎮圧する。
              会津葦名盛滋、伊達氏を応援する。

1522年         稙宗が、陸奥国守護職に補任される。

1528年         稙宗、葛西氏を攻める。

1532年         稙宗、田村地方に出陣

1533年         蔵方の掟を制定し、公布する。

1535年         伊達領長井・屋代などの棟役日記が注記される。

1536年         塵芥集 170ヶ条を制定する。。

1537年        大崎義直の援軍要請を容れ、大崎の緒城を攻略。
              浜田宗景も一千騎連れ出す。

1538年         領内の段餞古帳を作成する。

1539年         稙宗の4男 玄蕃丸が死去。   墓は 米沢市 昌伝庵にあり。

     

伊達家15世   伊達晴宗

1542年        伊達15世晴宗、 父 稙宗をおそい天文の乱 起こる。

1548年        天文の乱おさまり 稙宗は伊具郡丸森城に隠居、 晴宗は米沢城へ移る。

1553年        天文22年 晴宗、家臣に新期に判書を下付する。

1554年        浜田伊豆守景隆が生まれる。

1567年        独眼流 政宗が生まれる。


伊達家16世  伊達輝宗

1570年       16世 輝宗、最上家の内訌に介入して、上山に出陣。

1574年       最上義光、父義守・弟義時らと対立。 輝宗、義守への援兵のため
            高畑城主 小梁川盛宗に命じて 上山城主 里見民部を攻撃させる。
            輝宗、 義守を助けて畑谷城を攻撃する。



伊達家17世    伊達政宗

1579年      福島県三春城主田村清顕の息女愛姫、政宗に入嫁す。

1584年      輝宗家督を、十八才の政宗にゆずる。

1585年      葦名氏を攻め耶麻郡(福島県)檜原を奪う。     (19才)

           安達郡人取橋において佐竹・葦名らの連合軍と戦う。   

1586年      覚範寺を建立し、輝宗の菩提をとむらう。      (20才)

1587年      鮎貝宗信、最上義光に通じて叛く。  これを討つ。

1588年      佐竹・葦名らと和睦す。  大崎・最上両氏と和睦す。

1589年      相馬氏を攻め、駒ヶ峯城を奪う。                  (23才)
           葦名義広を磐梯山麓摺上原に破る。  黒川城に入る。
           須賀川城を攻め二階堂氏を滅ぼす。

1590年      政宗、小田原参陣のため、米沢を出発する。        (24才)

1591年     米沢城主 政宗 陸奥国岩手沢城に転封になる。      (25才)

1600年      家康は直江兼続の答書をみて怒り、                   (34才)
           諸大名に対し、上杉氏攻めを命ずる。   (関ヶ原の戦い)
           直江、 畑谷城をおとし、長谷堂城を囲む、 西軍大敗した。

1614年     上杉景勝・伊達政宗とともに 大阪進発の先鋒を命ぜられる。  冬の陣 (48才)

1615年      夏の陣

   

伊達、 置賜の時代 

伊達家初代 朝宗

資福寺の梵鐘 

永仁4年鋳造  玉峰作
長さ四尺一 重一百鈞(1800kg)
  

鉄黒漆五枚銅具足

重要文化財
鉄板に黒漆を塗った重厚な甲冑

仙台城大手門・脇櫓

大手門は秀吉が朝鮮出兵の際築いた、
名護屋城の城門を移築したといわれる。

晴宗の代の宿老      中野、 牧野、 浜田、

輝宗の代の宿老      浜田、 原田、 富樫、 遠藤、

政宗の代の宿老      片倉、 鈴木、 屋代、 (浜田は戦死で交代?)

幻の百万石覚書

関ヶ原合戦の前、家康が政宗に出した「長井郡」
などを、戻すとし、幻となった覚書